私的メンヘラ論


ほんとはこういう長い記事をキーボードでプチプチ打ちたかったんだけどね。仕方ないね。フリック入力が嫌いなんじゃなくて、qwerty配列のキーボードをリズミカルに叩くことによって得られる自己陶酔感が好きすぎるんです。


とりあえず本題に入ろう。まず、「メンヘラ」とはいったい何なのか、について。

ぼくの記憶が正しければ、メンヘラとは2chの「メンタルヘルス板」の住民を「メンヘラー」と称したことに由来する、「メンタルヘルスに何らかの不調をきたした人々」を指す言葉でした。

何をもってメンヘラ(的な状態)とするか、は個人個人の基準だと思います。ぼくは「精神疾患を患い、精神科(その他メンタルクリニックなど)へ通院した経験が一度以上ある人」をメンヘラとみなしています。まあここらへんの基準は割とどうでもいい気がします。


ここで例をひとつ挙げます。「病的な鬱」とは何なのか。

どんな人でも、憂鬱を感じることはあると思います。「センター試験を控えていて憂鬱な気分だ」「将来を考えると憂鬱な気分だ」「失恋して憂鬱な気分だ」などなど。これらはセンター、将来、失恋といった直接的な理由が背景にあります。理由があって、憂鬱を感じる。これは健全なメンタリティにおいても日常的に起こることです。病的ではありません。「病的な鬱」とは、特に理由はないが強い憂鬱を感じ、それが数週間以上続くこと、だと個人的には思います。

何らかの理由がある鬱、たとえば 「センター試験を控えていて憂鬱な気分だ」。これは、センター試験が終われば治る(病的ではないので、この表現は少し違うかも)。あと、メンヘラでなくてもインフルエンザに罹ったら、気分はとても落ち込みます。一般的には。これもインフルエンザ自体が治癒したら自然におさまります。これらの例とは別の「特に何の理由もない強い憂鬱感の持続」が、いわば「メンヘラ的な鬱」です。


じゃあメンヘラはどうすればいいのか。メンヘラを治せばいいと思います。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という古い言葉を持ち出さなくてもメンタルとフィジカルが相互にフィードバックし合う、ということに異論はないと思います。だからまず第一に健康な生活を送ること。適切な睡眠をとる、暴飲暴食は避ける、ODしない、などなど。これが基本です。

次に、考え方を変えること。全ての物事にはもともと意味はありません。意味とはわれわれ個人個人が作り出したものです。もっと言えば我々が持つ眼鏡を通した時にのみ事象はそれ自体が意味を持つ、ということです。この"眼鏡"次第で、一般的には楽観的なことでも、悲観的な意味を持つことになる。楽観と悲観はどちらが正しいか、ということではなく、物事を悲観的にとらえすぎる眼鏡を持っていて、そのことがひどく気を煩わせるようなら、"眼鏡"をいったん見直してみてはいかがでしょうか?って話です。乱暴な言い方をすると「お前は泣いたりわめいたり手首切ったり薬飲んだりする前に少しは自分自身の考え方を見直した方がいいぞ」ってことです。

こういう精神論めいたことを言うと「神経細胞間の伝達物質が〜なので仕方ない」とか返ってきそうな気もしますが、精神医学自体とても新しい学術分野だし、過信しすぎるのもどうかと思いますね。正しいこともあるのでしょうけど。


思いがけなくメンヘラdis(?)をしてしまった。ぼくの周りにいるメンヘラな方々も個人的にはみんな好きですし〜そういう意図は一切ない。


近代社会は、人間がある程度の理性を有していることを前提として成立する社会です。「我思うゆえに我あり」からニーチェの「神は死んだ」。じゃあわれわれは何に頼って生きていけばいいのか?それは自分で考えなさい。これが近代社会です。

さっき"眼鏡"の話をしました。これが"理性"です。理性は物事に意味を与えます。そして物事の意味を考えることは、人が悩むことにもつながります。理知的に理知的に理知的に日々を生きた結果、悩んで悩んで悩んで、メンヘラになってしまうような人も中にはいると思います。近代社会は「メンヘラの世紀」でもあったのです。

世の中には「バカ」と呼ばれる人種がいます。一般的に想像されるバカはおそらく「物事の意味を考える」ことなどほとんどしないでしょう。「理知的」というイメージの対極にいる存在、「メンヘラ」とは縁のなさそうな存在、それがバカです。

先に述べたように、近代社会は「物事の意味を自分で考える」ということを人々に強いる社会です。この社会にそぐわない、意味のないこの世界の全ての物事について考えることを放棄した人種に「バカ」の烙印は押されるのです。

メンヘラにもバカにもならないためにはどうすればいいのか。健康的な生活を送り、精神疾患があるならばしかるべき治療を受け、理知的に物事を考えても人生に行き詰まりを感ず済むように、思考の材料の一つである「教養」を高いレベルで身に付けることが重要なのではないでしょうか。それはまた、「自分のことは自分で考える」ことを人々に強いる、世知辛い「近代(現代)社会」を生きる術ではないでしょうか。