どうでもいい


「どうでもいい」って言葉があるじゃないですか。あれって、たとえば「どうでもいい雑学」「君の言うことはどうでもいい」みたいに、一般的な用法では否定的なニュアンスを持ってるわけじゃないですか。


しかし僕は「どうでもいい」というのはつまり「どうであっても、いい」。過去も現在も未来も引っくるめた強い肯定の語なのではないかと思いました。


たとえば、僕が誰かに「受験勉強の調子はどうだい?」と聞かれたとします。それに僕は「どうでもいい」と答えたとします。この場合の僕の「どうでもいい」は、聞き手には、否定的ニュアンスを持った「どうでもいい」として受け止められることが多いと思います。

次に、"僕"が"僕の恋人"と会話しているシチュエーションを想定します。

恋人「どうしよう、このままじゃ私、◯◯君(この場合、僕)と同じ大学に進学できないかもしれない」

僕「どうでもいいよ」

このやり取りにおける"僕"のセリフには二通りの解釈ができます。一つは、「恋人のことなんて、どうでもいいよ」。これは、話全体がすごく否定的な意味になります。「恋人が」どうでもいい、のですから。

もう一つは、「恋人がどこの大学に行こうが、どうでもいいよ」。これはこれで一つめの解釈と変わりがない気もしますが、それとは違う。この場合は「恋人がどこの大学に行こうが」どうでもいい。つまり、"僕"にとっては、恋人の進学先がどこであるというのはさしたる問題ではない、ということ。恋人の受験に関して、そこまで問題を感じていないのです。この解釈をとると、"僕"のセリフの後に、自然な形で「君がどこの大学に行こうが、君への想いは変わらない」など、ポジティブなセリフを(想像の上で)補えます。

たとえ話が下手で申し訳ないですが、どうでもいいってことはそういうことなんです。「どうなっても」「良い」んです。

先の例を踏まえると、「人生どうでもいい」という退廃的なセリフでも「たとえこの先人生がどうなっても、私はそれをすべてよしとする」といった、とても前向きな解釈ができるわけです。もちろん、一般的な用法をベースに考えると「人生 が どうでもいい(従来の用法。否定的なニュアンスをもつ形容詞)」ととることも自然ではあるのですが。


プラスの意味での「人生どうでもいい」のような思想を根底に持つと、生きていてつらいことがあっても「これでもいいや」と思えるでしょう。しかし、この生き方は向上心に欠けているようにも思われるかもしれません。「高卒のぼく」と「東大卒のぼく」はこの思想の下ではイコールな価値を持ちかねません。しかしそこは「どうでもいい」のですから、人生に関しては"僕"は特に失うものはありません。だから、気が向いたら、何かを犠牲にしてでも東大を目指せばいいし、目指さなくてもいい。それは、「どちらでも」「良い」ことなのです。

人生における基本ライン(これ以上、下がってはいけないという最底辺ゾーン)を低くおくのが「人生どうでもいい」思想です。これとは対照的に基本ラインを高く高くおくのが「意識高い系」などに代表される「人生どうでもよくない」思想です。

どちらの思想でも「向上心」と呼ばれるものを持つことは可能です。人生どうでもいいマンが「頑張る」動機は、基本的に「どうでもいいこと」のためです。どうでもいいことのために頑張っている状態が「向上心のある」状態でもあります。

人生どうでもよくないマンが頑張るのは、「何かを守るため」であることが多いと思います。自分に対する家族の期待が「どうでもよくないから、頑張る」などのような、「自分が今まで積み上げてきたモノ」を守るための頑張り、が基本です。


どちらの生き方(というとオーバーである。生き方とは手段であり、先に述べた、人生がどうでもいいか否かという問題は、生き方のような手段の上位に存在する"目的"に近い概念である)を選択するかは個人の自由です。人生がどうでもいい(どうでもよくない)ことそのものが人生の目的(に近いもの)でない限りは、人生の存在意義のようなものは自由に考えた方がいろいろ捗ると思います。

「人生どうでもいいマン」型の成功を「成績(周りからの評価)なんてどうでもいいけど、勉強が好きだから(大学で自分のやりたいことがあるから)勉強してたら、全国模試で1位になった」とすると、「人生どうでもよくないマン」型の成功は「両親が勉強しろとうるさいから、恋人と同じ大学に行きたいから、周りからバカにされたくないから、勉強してたら、全国模試で1位になった」みたいな感じだと思います。どちらのやり方でも、全国模試で1位をとる人はいると思います。同じゴールでも、目的が違う。違っていいと思います。

非常に多くの人にとって、「全国模試で1位をとること」そのものは「とても良いこと」であると思います。全国模試に限らずとも、どちらの思想でも、いわゆる「成功」に向けて努力することはできると思います。

ここで僕が言いたかったのは、目標があることも、ないことも、そのために努力することも、努力しないことも、人生がどうでもいいことも、どうでもよくないことも、全ては「どうでもいい」ことであり、この「どうでもいい」世の中で、僕を含む「どうでもいい」多くの人たちは、それぞれの価値観の枠組みの中で、どうでもいいなりのハッピーエンドにたどり着ける可能性があるのではないか、ということです。


浴槽に浸かりながらこんなどうでもいいブログを更新していたらいつの間にかかなりの時間が経ってて湯冷めしたっぽい。どうでもいい。




私的メンヘラ論


ほんとはこういう長い記事をキーボードでプチプチ打ちたかったんだけどね。仕方ないね。フリック入力が嫌いなんじゃなくて、qwerty配列のキーボードをリズミカルに叩くことによって得られる自己陶酔感が好きすぎるんです。


とりあえず本題に入ろう。まず、「メンヘラ」とはいったい何なのか、について。

ぼくの記憶が正しければ、メンヘラとは2chの「メンタルヘルス板」の住民を「メンヘラー」と称したことに由来する、「メンタルヘルスに何らかの不調をきたした人々」を指す言葉でした。

何をもってメンヘラ(的な状態)とするか、は個人個人の基準だと思います。ぼくは「精神疾患を患い、精神科(その他メンタルクリニックなど)へ通院した経験が一度以上ある人」をメンヘラとみなしています。まあここらへんの基準は割とどうでもいい気がします。


ここで例をひとつ挙げます。「病的な鬱」とは何なのか。

どんな人でも、憂鬱を感じることはあると思います。「センター試験を控えていて憂鬱な気分だ」「将来を考えると憂鬱な気分だ」「失恋して憂鬱な気分だ」などなど。これらはセンター、将来、失恋といった直接的な理由が背景にあります。理由があって、憂鬱を感じる。これは健全なメンタリティにおいても日常的に起こることです。病的ではありません。「病的な鬱」とは、特に理由はないが強い憂鬱を感じ、それが数週間以上続くこと、だと個人的には思います。

何らかの理由がある鬱、たとえば 「センター試験を控えていて憂鬱な気分だ」。これは、センター試験が終われば治る(病的ではないので、この表現は少し違うかも)。あと、メンヘラでなくてもインフルエンザに罹ったら、気分はとても落ち込みます。一般的には。これもインフルエンザ自体が治癒したら自然におさまります。これらの例とは別の「特に何の理由もない強い憂鬱感の持続」が、いわば「メンヘラ的な鬱」です。


じゃあメンヘラはどうすればいいのか。メンヘラを治せばいいと思います。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という古い言葉を持ち出さなくてもメンタルとフィジカルが相互にフィードバックし合う、ということに異論はないと思います。だからまず第一に健康な生活を送ること。適切な睡眠をとる、暴飲暴食は避ける、ODしない、などなど。これが基本です。

次に、考え方を変えること。全ての物事にはもともと意味はありません。意味とはわれわれ個人個人が作り出したものです。もっと言えば我々が持つ眼鏡を通した時にのみ事象はそれ自体が意味を持つ、ということです。この"眼鏡"次第で、一般的には楽観的なことでも、悲観的な意味を持つことになる。楽観と悲観はどちらが正しいか、ということではなく、物事を悲観的にとらえすぎる眼鏡を持っていて、そのことがひどく気を煩わせるようなら、"眼鏡"をいったん見直してみてはいかがでしょうか?って話です。乱暴な言い方をすると「お前は泣いたりわめいたり手首切ったり薬飲んだりする前に少しは自分自身の考え方を見直した方がいいぞ」ってことです。

こういう精神論めいたことを言うと「神経細胞間の伝達物質が〜なので仕方ない」とか返ってきそうな気もしますが、精神医学自体とても新しい学術分野だし、過信しすぎるのもどうかと思いますね。正しいこともあるのでしょうけど。


思いがけなくメンヘラdis(?)をしてしまった。ぼくの周りにいるメンヘラな方々も個人的にはみんな好きですし〜そういう意図は一切ない。


近代社会は、人間がある程度の理性を有していることを前提として成立する社会です。「我思うゆえに我あり」からニーチェの「神は死んだ」。じゃあわれわれは何に頼って生きていけばいいのか?それは自分で考えなさい。これが近代社会です。

さっき"眼鏡"の話をしました。これが"理性"です。理性は物事に意味を与えます。そして物事の意味を考えることは、人が悩むことにもつながります。理知的に理知的に理知的に日々を生きた結果、悩んで悩んで悩んで、メンヘラになってしまうような人も中にはいると思います。近代社会は「メンヘラの世紀」でもあったのです。

世の中には「バカ」と呼ばれる人種がいます。一般的に想像されるバカはおそらく「物事の意味を考える」ことなどほとんどしないでしょう。「理知的」というイメージの対極にいる存在、「メンヘラ」とは縁のなさそうな存在、それがバカです。

先に述べたように、近代社会は「物事の意味を自分で考える」ということを人々に強いる社会です。この社会にそぐわない、意味のないこの世界の全ての物事について考えることを放棄した人種に「バカ」の烙印は押されるのです。

メンヘラにもバカにもならないためにはどうすればいいのか。健康的な生活を送り、精神疾患があるならばしかるべき治療を受け、理知的に物事を考えても人生に行き詰まりを感ず済むように、思考の材料の一つである「教養」を高いレベルで身に付けることが重要なのではないでしょうか。それはまた、「自分のことは自分で考える」ことを人々に強いる、世知辛い「近代(現代)社会」を生きる術ではないでしょうか。


受験のこととか


えー、なんだっけ。今年の受験のことか。

できればコタツに足を突っ込みながらノーパソ使ってブログとか書きたいんだけどね。PCがある自宅の居間は寒いしね。仕方ないね。


今年はだいたい去年と同じようなところに出願します。センター利用少なめで、Fラン(実際はDランくらい)も受けます。どっか受かるでしょ。今年も何も勉強してないけど。Fラン行ったら仮面浪人です。そのくらい。


話変わるけど音ゲーってあるじゃないですか。あれって、指示通りにミスなくリズムよくノーツ(など)を叩いて(処理して)点を貰うってゲームなんです。東大でも音ゲーはやる人が多くて、音ゲーのサークルもあるらしいです。

いかにミスなく指示通りのことができたか、を貰える点数で競うのが音ゲーで、そこに大学受験に似た構図があると思った。東大に受かるのは日本でもトップクラスの"優等生"だからきっと音ゲーも得意なんだろうな、みたいなことをちょっと膨らませて書いたら面白い記事になりそうだと思った。それだけ。特に音ゲーマーや東大生をdisる意図はないです。くだらない思いつき。


「Fランも受けます」の後に「東大生は誰かの言いなりになるのが得意な良い子ちゃん」みたいなこと書いたら、まるで僕が受験の失敗を見越した上での言い訳として「学歴くそくらえ論」を展開し出したみたいになってアレだな???ぼくは超がつくような学歴厨だよ???全然そんなこと考えてなかったんだからねっ!!!



出身高校に調査書を取りに行ったら部活の顧問にエンカウントし、彼に開口一番「おっ、◯◯(ぼくがかつてツイッター上で使っていたハンドルネーム)じゃないかっ???wwww」と言われてしまった。これがぼくの記念すべき2014年第一号ホームラン級死にたみでした。生きねば。




要はノーパソがほしい


そういえば今年に入ってからはまだ一度もブログを更新していませんでしたねー。あけましておめでとうございました。


いま現在ツイッターをやらなくなってしまった身ではありますが、それでも普通に生活していたら(誰かに)伝えたいことっていうのは当然生まれてくるわけで、それでもここ10日くらいブログを更新しなかった理由というのは、iPhone(フリック入力)で長めの文章を書くというのはなかなかめんどくさいことなんです。

iPhoneというものはスマートフォンで、このスマホというのは"携帯電話"の延長線上に存在するものだと思うんですよ。で、携帯電話ってのはつきつめれば大昔の通信兵が持ってたようなごっついマシーンを、小型化して、小型化して、小型化したものなんです。だから携帯電話っていうのはもともと長い文章を書くことは想定されていなかった。

携帯電話にはメール機能が付きました。ぼくは通話よりメールの方が好きです。昔から「人の声を聞き取る」ことがすごく苦手で、iPhoneを使って通話する時もイヤホンを通し、ボリュームを最大まで上げないとまともに話もできないんです。この感覚がわかる人とは友達になりたい。

話が逸れた。スマホのフリック入力は確かに便利だけど、PCのキーボードを叩く方が性に合ってる気がする。てかみんなそうだと思う。たま〜〜にスマホを買ったのにフリック入力を覚えようとせずスマホのちっちゃいちっちゃいqwerty配列のキーボード画面出して文字打ってる人いるけどもうマゾとしか思えない。マゾだね、あれは。


長々書いたけどぼくはノーパソでネットがやりたいんです。それだけ。


受験に関しては次項で。





現実逃避


すっごく暇だったので(たぶん暇じゃない)、現実逃避に「歴代東大総長暗記」にチャレンジしました。


(ルール解説)

歴代東大総長38代32人の「名前(フルネーム)」「在任期間」「名前の読み」「出身高校」「出身学部」を調べ、丸暗記する。

[例] (38) 濱田純一(はまだじゅんいち) 灘高・法学部・(H21.4〜)


(まとめ)

・戦後の総長さんはだいたい高校(旧制中学)を出ていた。戦前の総長さんは「私塾」(「適塾」など。高校とカウントして良いのかわからない)出身者が多かったり、高校を経ずにいきなり海外の大学に留学したりしているケースもあった。

・書きは「渡邊」「長與(ながよ)」「蓮實重彦(はすみしげひこ。"彦"は上部の立の中部分の縦棒がクロスしている)」が難しい。コンセプトを考えなるべくオリジナルの字体で名前を覚えてあげよう、と思ったので。

・調べる作業が予想外に時間がかかった。楽しかった。しかしこれを覚えて何の役に立つのだろう。


@知人各位  ふと「歴代東大総長について知りたい!」「東大総長で山手線ゲームがやりたい!」などと思い立つようなことがあったら気軽にぼくにお声を掛けてください。



年末ですね


今年冬のサントリースーパーフリーのCMに出演している女性がかわいらしいっていうかいい雰囲気。


そういえば私大の願書を買いました。受験校は去年とだいたい同じようなラインナップです。どうやら二浪はできない(させてもらえない)らしいので滑り止めの滑り止めは専修や東海らへんまで受けることになりそう。日大もA判出てるし日大でいいじゃん…とは思いますが。

出願って結構めんどくさかった記憶があるしそこらへんもまとめて予備校がやってくれると本当に助かるのですが。クソツヨ現役生に生まれ変わって東大一本とかやってみたい人生だった。





ネカフェより愛を込めて

ネカフェから(PCから)初投稿になりますね。タイピングよりフリックの方が慣れているしネカフェのPCはなんかアレなのが多いのでどうしても捗らない。うーむ。

 

最近は1日3時間睡眠(午前7時就寝→午前10時起床)という生活リズムを(意図せずして)獲得しました。そのうち身体が慣れるだろうと思っていたけど1週間経っても一向に慣れる気配がない...どんな生活を送っているのか昨日の一日を例に出そうと思ったけど昨日の一日についてほとんど何も覚えていない。音ゲーやってニコ動でポケモンHoI2の実況プレイ観てたくらいしか覚えてない。要はそんなもんです(?)

1日3時間睡眠ライフはやってみると分かるけどだいぶつらい。睡眠時間を削って生まれた時間で何をやっているかというと適当にネットサーフィンしてるだけだからアレ。wikipediaを巡回して得た知識が入試に役立つことは(まず)ないのでアレ。

 

FF7のラーニング技に「戦闘で逃げた回数が多いほど大きなダメージを与える」みたいなのがあって、低レベルクリアに重宝しそうだったけど、僕もそういう裏技っぽいものを使って大学受験では低レベルクリアを目指したい。ほら、入試でやたら高い点数を出して受かるのもほら、ドラクエだと全キャラをLv70くらいまで上げてからデスピサロを倒して「うわーお前ゲーム下手だな」って友人に苦笑されるような、そんな感じじゃないですか。まあ大学受験で本気で低レベルクリアを狙うなら推薦とかAOとか受けますよねって話。

 

母「今年は受験は大丈夫なの...?」

ぼく「大丈夫だよー。今年はMARCHも千葉も学芸もA判出てるし(大本営発表)」

母「それなら安心ね!」

 

※「MARCHも千葉も学芸もA判出てるし」→MARCHのどこのどの学部とは明言しないのがミソ。「千葉も学芸もA判」も一応ホント。例えば記述模試で教育学部(国語教育)を書くと判定に利用される科目が国語1科目になったりする。こうして「千葉大A判の浪人生」を名乗れるワケです。あたいったら最強ね!

 

最近はひたすら「なんとか最後まで志望校を下げずに受験期を乗り切ろう!」的なことに腐心している感がある。太平洋戦争末期の日本軍部みたいな感じをイメージしていただけると大変それっぽい。「絶対に志望校を下げないぼく」(日本軍部)と「妥協を呼びかける予備校の担任&両親」(なんとかして敗北必至な戦争を回避しようとする昭和天皇)って構図。ミッドウェー不可避。日本史選択じゃないから適当なこと言ってたらサーセン。ほら、世界史でももう敗戦が確定したような状況でヒトラーが最後まで奇跡を信じ祈り続けたら米国ではローズヴェルトが亡くなったではないか。あんな感じで最後まで頑張りたい(?)。僕も祈り続けたらどこかのK成高校でインフルエンザでも流行ってクソツヨ受験生がみな寝込むかもしれない。

 

えっ、クリスマス?一組でも多くの受験生カップルがキスを通して各種病原菌を口の粘膜越しに移し合ってくれればこちらとしてもライバルが減って非常に助かるのでリアリアしてる受験生の皆さんはどうぞ心おきなくリアリアなさってくださいって感じですね。